心がうきうきとしている。
1年以上ご無沙汰な感覚。
この感覚をひさしぶりに感じている。
それは、明日が「特別な日」であるということ。
結婚記念日でもなければ、
誕生日でもないし、
ましてや誰かとデートでもない。
何の変哲もない、「明日」という一日。
しかし、心臓の鼓動をどきどきと
早打つようなわくわくする予感に包まれている。
9分咲きの桜の話を電話で聞きながら、
実家に行くと、春の季節の変わり目からの
季節はずれの春の嵐によって、
ぴったりと山の稜線が真っ白に包まれていた。
その景色を見た時にぴーんという閃きのような
直感が自分の心の奥から沸いた。
「これは撮れるぞ」
一年の中に数日だけ、天候も状況も全てがまるで
スロットマシンのようにピタリと重なって
完璧な日が存在する。
それはもう、その日の朝を迎えた時に
今日は完璧な日だと判るのだ。
前にも北海道で働いていた時に初めてその日を迎え、
その予感したがって、仕事を早退してカメラを担ぎ
完璧な日を満喫する事が出来た。
その後も何度かその予感はあったが、
残念ながら決断が遅れたり、条件が整わなかったりと
その日に自分が遅れをとることが多く、
目の前を過ぎていく歯がゆさを何度も覚えた。
その経験からいかにその日に立ち会う事が
難しく、また素晴らしいものなのか
そして同じ瞬間はどれだけ待とうともう
2度と訪れないものであるかを知った。
今日、その予感がした時はカメラもなく
フィルムもなく、あるのは予感だけだった。
そこでした事は一つだけ、「決断する」事だけだった。
思い立ったのは21時を過ぎた頃。
そこからはタウンページを開き、フィルムを置いていそうな
個人の写真店を電話帳の上からあたり、頼み込んでフィルムを
手に入れ、車を飛ばしてカメラを取りに山梨から横浜に戻ってきた。
カメラを用意し、日の出の時間を調べてこれから山梨に戻る。
明後日は低気圧の影響で天気が荒れる事が判っている。
チャンスは明日の午前中のみ。
結果はどうなるのかそれは判らないけれど、
明日が完璧な日になる事は判っている。
その時に立ち会えるのであれば、
写真が撮れるか撮れないかはあまり重要ではないのだ。
「明日」がくるのがわくわくとする。
それこそが今の僕にとっては一番大事な事なのだ。
カテゴリー: 写真
はてさて
ひさしぶりに写真の話に戻れそうなんだけれど、
と言うのも今年の夏には撮影に出かけられたらと、
機材の下調べに近くのショップに出かけてきた。
まだ、父の残務整理は済んでいないけれど、
ようやく目処が立ち、残りもわずかとなったので
少しの気分転換の意味も込めて、調べてみる事にした。
前から導入を考えていた水中での作品作りに向けて
ハウジング付きのカメラを購入して今年の夏から
新たな表現をと考えていたのだ。
しかし、フィルムで普段作品づくりをしているぼくに
とっては新たに水中の世界を始める訳なので
フィルムでの世界だけでなく、デジタルでのアドバンテージを
聞いてみたくショップに出かけてきた。
結果から行くとなかなか「フィルム!」と力強く断定しきれない
ところもあった。
今まではフィルムであることに重きを置いてきたところは
あるけれど、筆のタッチを替えるように道具を使い分けても
良いのかも知れないとも思いながら、帰ってきた。
もう少し考えてみよう。
火を見つめる
月よ、静けさよ
いい月が上がってきました。
ヨメから携帯に
「いい月がでてるよ~、中秋の名月が。」
と電話が入り、外に出て見上げると
真っ白に輝く美しい月が。
前に400mmで月を撮って見事に
露出失敗したことがあったので、
早速、D70とヨンニッパを出してきて
正解探し。
どの組み合わせが正解か?
ここを、こうすると、で、この補正でどうだ・・・・?
森の中にある静かな家のテラスは
絶好の撮影ポイントでした。
今日勉強になったこと。
月を撮るときの露出よりも、大事なこと。
名月を眺めるなら、音の無い静かなところで
眺めた方がより美しい。
月には静けさが良く似合う。
太陽は生きる為に必要だけれど、
それとは別に月のおかげで人はどれだけたくさんの
文化を生んだのだろう。
逆境にも負けず、日焼けにも負けず。
4月に応募したヤングポートフォリオが見事に
返送されて参りました。
残念ながら全滅。
あぼーん。
まあ、しょうがない。
また来年。
とりあえず、今のところの写真の動きはこれだけです。
時間が無く、自分のために時間を使う事が出来ない状況
であるため、せめてこれだけでも通っていればやる気も出るなあ。
と思っておりましたが、世の中そんなに簡単には通れない状況です。
でも、何となく今の自分に必要なのはさらなる精進であって、
今は人から褒められる事が必要なのでは無くって、
まずは今の自分の写真をきちんと整理した上で、そこから自ずと
わき上がってくる、これからの自分の方向もやりたい事を見つめる事である。
と、自分に期待をかけている次第でございます。
そうするとね、ほら、これから撮れる写真はさらによくなってしまう
わけですよ。いまここで満足するなかれ。
さーて、次行ってみよう!次はなんの応募があったっけ?
ちなみに数年ぶりの日本の夏は記録的な猛暑ということですが、
あんまり暑く感じないのですが・・・・。
もっと日本の夏って、暑くて何もする気が起きなかったイメージが
あるのですが、夏も悪くないなと心変わりしてきました。
年をとると食べ物の好みが変わるといいますが、
それは季節の感じ方も当然変わるのかなあ。
しかし、夏が好きになったのはいいけれど、
調子に乗って海で泳いでいたら、日に焼きすぎて水ぶくれができて、
医者に世話になってしまう事に・・・・・。
やはり年をとったのかなあ・・・・気持ちに体がついていかん。
おもいでぽろぽろ
このところ、ばたばたと忙しくというよりは、
充実していて(と、書いた方が良さそうだ・・)
毎日仕事から帰ってきてはせっせと今までの写真達を
整理している。
今までも自分の気に入った作品は整理した来たけれども、
全体をきちんと分けて、整理された状態に維持して
尚かつどんな写真があるのかすぐに判る状態にしておきたいと
思っていた。
それに「まだか!いい加減にしろ」と言われそうだけれでも、
今年のアラスカの出発の前までに自分のWebページを
オープンしたいと思っている。
それには自分の写真達をデジタル化しておくことが必要だし、
ノートpcで持ち運ぶ事で、アラスカでもイメージを
具体的に見せる事が出来るようになる。
それに最近のコンピュータの進歩やデジタル画像の管理に関する
考え方の進歩もあって、「ああ、こういうふうにやりたいなあ」
と思っていた事が、ソフトやハード両方の面で
環境や自分の勉強の進歩で出来そうになってきた。
もちろん、やりながら勉強する事も沢山あるのだけれど、
少しずつでも前に進んでいる実感がある。
いろんな事はすぐに忘れてるとヨメに怒られるぼくだけれど、
不思議と写真を撮った時の状況や何を考えていて撮ったかなど、
とてもよく憶えている。
どんなベストショットでも、
ボツカットでも不思議とそれは変わらない。
そんな訳で、昔の写真を整理すると言う事は
必然的に過去の自分に対面する事であり、
あれやこれやと思い出すのである。
ある意味セキララな作業でもある。
真摯な自分の視点であったり、自分に酔って
大量に撮られたセルフタイマーの写真であったり、
ちょっとした自分同窓会だ。
しかも、毎晩開催。
おかげで、ちょっと風邪をひいてしまった。
今はまだ昔選別してふるいにかけた物に
拾い残しがないか調べている段階。
それがね、結構あるんですよ。
沢山写真をみてきて、勉強になった事も
やっぱりあったんだなとしみじみ実感。
そして、真のボツはビニール袋に入れて
お蔵入り。
きっと日の目を見る事はありません
え?
だって捨てられないんですもの・・・・
今年の挑戦
ワークショップ
今日は仕事を終えてから
恵比寿の写真美術館でモノクロのプリントのワークショップに
参加してきました。
完全な初心者を対象にしたワークショップで
参加者もいろんな人(おじさんから若い女の子までいろいろ)
がいて自分で撮影したネガから1コマ選んで紙に焼きました。
実は・・・・
今日初めてモノクロのプリントをやりました!!
さんざんこだわっているような事を書いておきながら・・・
じ・つ・は・・・・
今まで、カラーネガを機械で焼くレーザープリントや
ポジでのリバーサルプリントはだいぶ、経験を積んできたので
判るようになっていたのですが、
機械を使わず、自分で引き延ばし機を使って
現像液を用意して行う「手焼き」は今日初めてでした。
うーーん
面白い!!暗室の作業は手応えがある!!
何より人に伝えず自分で好きなように作品作りができるという
このプロセスが面白い。
ぼくは普段、ポジと呼ばれるカラースライドを使って
撮影している。
これは、現像が終わった段階で作品としては完成する。
ネガなどと違う事は、ネガの場合反転させてプリントするため、
実際のネガからプリントにする時の解釈の違いによって
まったく異なった作品になるのだけれど、
ポジの場合は現像が仕上がった段階で、オリジナルとしては完成する。
もちろん、プリントにする場合はネガと同じように解釈によって
変わってくるが、ぼくの感覚としてポジの場合は現像が上がった段階で
はっきりと作品の完成があるような感じている。
しかし、これがネガ・ポジともにカラーのプリントを作るということは、
薬品の温度管理がとても難しい。
なので、ほとんどの場合は機械の制御下で温度を管理して、
カラープリントを作り出している。
ぼくは今まで、自分の作品をプリントで作る場合は
ほとんどの場合、第三者に自分の作品の意図を伝えて
作ってもらう事が多かった。
言葉にしても伝わらない感覚が、どうしてもある。
今日モノクロのプリントを自分で作ってみて、
何より自分が作品作りに関われる工程がさらに広がっていくのが
とてもみずみずしい感覚だった。
今日自分で作ったプリントは、作る過程でひらめいたイメージで方法を変え、
最初に自分が作品にイメージしていたものとは全く違う物になった。
この事が今日の一番の自分の成果だった。
暗室の自分の手の中で像を結んでいく印画紙に感動を覚えた。
写真はおもしろい!!
まだまだ勉強する事がいっぱいあるなあ。
また、一つ写真の面白い面を知ってしまった。
今年のアラスカにも持っていこうかな?モノクロフィルム。
でも、撮る事は全く別物なんだよね。カラーとモノクロは。
少しでもモノにしていろいろやってみたいな。
ただし、一番の問題はわたくしがそんなに器用に立ち回れない事なんだよね。
うーん。こまった。
鳩とフォトグラファーの境目
今日は家の近くのギャラリーでやっていた
写真展で、写真家のギャラリートークがあったので
ヨメと二人で出かけてきた。
ギャラリートークとは要するに撮った本人による解説付きで
作品を見ながらいろんな話が聞ける。
これは話す作家によって全く内容が異なり、技法的な話や
カメラのセッティングのみに終始する人もいれば、
この画の時はこんな状況でシャッターを切ったと
延々と話し続ける人もいる。
ギャラリートークは写真という分野では伝わりにくい
「人が関わっている」という事が伝わる良い部分だと思っている。
僕はなるべく写真展を見に行く時はスケジュールを
合わせるようにしている。
写真という世界はカメラとレンズという機械を使い、
さらにフィルムという化学の世界によって成り立っている世界である。
最近はデジタルによって、
ますます人が関わる事がわかりにくくなっているように感じる。
展示された作品からは撮影者やその作品に関わった人の気配は
あまり感じられない。
作品の持つ撮影者の感性の世界がストレートに伝わってくる。
作品としてはそれが伝われば最高の物になるだろう。
しかし、このギャラリートークを通して
その作品を作り出すための撮影者と制作者の情熱と努力を
かいま見る事によって、この事が別の角度から光が差すように
作品を照らし、さらに別の色を浮き立たせて見せてくれる。
「この作品は人によって作り出された唯一無二の物なのだ。」
これは、人が関わったというぬくもりのようなものを
さらに感じた時にこそ憶える感触なのかも知れない。
そして、この感触こそが機械や化学を使いながらも
すべての結果の奇跡として存在する写真という芸術が持っている
僕を惹きつけている魅力の一面なのだろう。
そして、ギャラリーでの時間を楽しんだあと、
ヨメとマクドナルドでチープなおやつを楽しんでいた時だった。
店の外に置かれた椅子で、もそもそとハンバーガーを食べていた時
1羽の鳩が足下を餌を探して歩き回っていた。
餌などやる気もなかったが、人慣れしていて不用心にこちらの足下に
近づいてくる。
あまりに無遠慮な距離の取り方だったので、
驚かしてやろうと思い急に手を振り上げたりしてみたが、
一応びっくりしたような様子は見せるものの、それでも
驚いて逃げたりしない。
【超望遠レンズで反芻中のムースにずっと張り付いて撮影する】
無意識の習慣で動物を見ると、ふとその動物が自分と
どのくらい距離をとるのかが気になる。
自分が撮影している距離で動物自体の表情も変わるし、
無遠慮な自分の振る舞いから危険を呼び込む時もある。
どんなに人慣れした動物でもこれ以上は受け入れないという
距離があって、その領域は同じ種類の動物でも、個体によって全く異なる。
その点が動物の個体ごとの個性という物なのかも知れないけれど、
動物の撮影にはその個性を見極められる技術も求められる。
たまに動物の撮影の話をしていて
「自分はこの動物に受け入れられたから撮れた」
と平然という人に出会う事がある。
僕は面と向かって反論はしないけれども、僕の経験上では
受け入れられたと感じたことはなかった。
自分が接近してそこで存在する事を許してくれる事はあるが、
それでも必ず彼らと僕との間には見えないけれども
はっきりとした線が存在した。
無遠慮に寄ってくる一羽の鳩をみてふと思った。
「この鳩はおれと一緒だな」
そして、その不作法さにぼくは苛立ちを憶えた。
その鳩の姿に不分別に被写体に接近していく写真家が重なって見えた。
鳩が足下を歩き回っていても気にならない時もある。
それでも、その対応は人によって様々だ。
その時の気分や状況によって追い散らす事もある。
芸術だ何だと言ってみたところで、所詮は個人の欲でしかない。
彼らの赦しがあってこそ初めて成り立つのだ。
けっしてそのまま自分が受け入れられているのではない、
自分が襟を正し、気持ち整然と整えてから初めて許してもらえるかが
決まるのだ。
多少の経験を積んだかも知れないけれど、まだまだ不作法者。
クルックー、クルックックー
地球の旅人
今日は写真展に2つ出かけてきた。
●「地球の旅人 新たなネイチャーフォトの挑戦」
@東京都写真美術館
新進の3人のネイチャーフォトグラファーを特集した作品展。
こういった美術館でいわゆる “ビッグネーム” ではない作家の企画展が
行われるのはあまり聞いた事がない。
新たなネイチャーフォトの挑戦とあったので、
とても楽しみにして行ったのだが、満足の内容だった。
この所、幾つかでかけた写真展では期待を裏切られる事が多かったのだが、
写真の内容、プリントの質、会場作りのすべてに置いても抜け目がなく
幾つか自分で写真展をやる時に使えそうなアイデアもあった。
ネイチャーフォトの世界では独学から入った人が多く、
(ぼくもそうです)作品展に出かけていくと、
写真のパネルが発泡スチロールのパネルに張られていて、
湾曲していたり、プリントの質が悪かったり、
キャプションが手作りで傷んでいたりと
写真の内容に入る前の段階でがっかりする事が多かった。
海外ではネイチャーフォトについての評価は一般的なアートと
比べても立派に評価されているのだが、日本では評価が低い。
知人の大学の写真学科では同じクラスにはネイチャーフォトを
志望する人はいないとの事。
自分が写真で表現する作家として
アートやコマーシャルの彼らと同じ土俵に立てなければ、
認めてもらう事はできない。
このことは今の自分でもっとも身につけていきたい事の一つ。
今回の3人の作家の中で、特に印象に残ったのは、
林明輝
山麓ネイチャーフォトグラファー
この人の作品が美しかった。
プリントの質も素晴らしく、写真の美しさが薄暗い会場の中で輝いていた。
印刷物では伝わらないオリジナルに最も近い作品の中に漂う空気という
ものがあった。
● 小寺卓矢写真展 森の息、生命の像 –北海道東部の森–
@新宿ペンタックスフォーラム
こちらは以前、書店で森のいのちという写真絵本を見てから、
ずっと気にしてきた作家。
北海道の森林を中心に撮り続けている写真家。
森という撮り尽くされた感のあるテーマだが、
独特の感性から生み出される作品は、
今まで語られていない部分が秘められているよう。
これからどんな物語が紡がれていくのか、とても楽しみな楽しみだ。
今日はこの2つの作品展から表現者のエネルギーを全身に浴び、
やる気がみなぎっている微妙な興奮状態でこのエントリを上げました。
よって、かなり読みにくい文章でしょうが、ご勘弁ください。
あー、今日は楽しかったぜ!!