燃えろ俺の小宇宙!!

最近ヨメがテレビでやってるオーラの泉という番組にはまっている。
霊能者と美輪明宏が霊的な感覚を使って、毎週芸能人の悩みに
的確なアドバイスを与えるという番組だ。
どうも聞いてみると、僕の周りではこの番組は特に女性に人気がある。
この番組の中ではその芸能人の前世を言い当てて、その前世からの
因縁で嗜好が決められているとアドバイスしたり、
オーラと呼ばれる波動が人によって、色で分かれていて
その人間の持っているエネルギーが色となって現れるそうだ。
でも、別にその霊能者がインチキだとか、
前世で出てくる人がヨーロッパの貴族だとか、
武士の何とかの娘で悲しい何とかばっかりで、
どうして、タイの農村で山賊に殺された子供だったとか、
ロシアの寒村で凍死した老人だったとか、フィンランドで犬ぞりから
転げ落ちて骨折して死んだとかないんだ!!と揚げ足をとるつもりは
ない。
僕自身はイマイチそういう感覚が人にはっきり言えるほど、
鋭くないので、そういうのがあるのかも知れないけど、
よくわからないなというのが、正直なところ。
それでも、たまに撮影していると、ここはやめた方が良いなと
無意識に感じる事があるけれど。
でもネットを見てたら、こんなの見つけた。

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これからはこっちでやれば、新たな道が開けるかなあ。

みらいのために

今はサーモンの旅のストーリーを作品として、撮り続けている。
いずれこの野生動物の旅を本にまとめるような形で
一つの物語として人に伝える形にしたいと思っている。
それにはもっとたくさんの写真が必要になり、
その作品達を生むためにはさらにたくさんの経験が必要になり、
その経験は膨大なフィールドでの過ごす時間から紡ぎ出される。
いったいどれくらいの時間が、これから必要になるのか見当も付かない。
目指す頂は遙か遠く未だその形すら見えないのが今の現状だ。
それでも今回の撮影で強く体感したのが、
「この道をたどってたどり着く場所はどんなところなのか見当もつかないが、
今この歩いている場所がやがてどこかに辿り着く。ここはつながっている」
そう自分で強く意識した事だ。
人に伝える上で自分の個展という舞台を数年後に開きたい。
そこで、自分の表現をぶつけてみたい。
自分に出来る限りの方法で表現したい。
今回、サーモンを撮影したアラスカの湖からサーモンの骨を持ち帰ってきた。
アラスカの川を遡り、湖を旅してやがて命を燃やし尽くして死んだ彼らの骨を
自分の個展の会場に置きたい。
そこからリアルにふれる何かを伝えられたら・・・・
写真という表現にこだわっているのであれば、
一切そういった物は置くべきではないという意見もあるのかも知れない。
この自分の撮り上げた物語がアラスカの大地で実際に存在する。
一つの物語が自然の中に存在する証として、あえてリアルに触れてもらいたい
今回は天気が悪かったけれども、過酸化水素で処理した後、
アクリルスプレーでコーティング。

個展はまだ先だけど。

ポジの選別を始めました

いよいよ、今年のアラスカ撮影の集大成
現像から上がってきたポジの選別を始めました。
帰国してから、現像に出してようやく
規則的に時間がとれそうなので、ポジの選別に入ります。
玉石混合
さあ、玉が幾つ入っているかは判りませんが、
この作業が一番根気で地道な集中力が必要な作業です。
なぜなら、あくまでも中立の目線でポジを選んでいくという
作業は思ったよりも難しいのです。(僕には・・・)
不思議と何本撮っても、その撮った状況やその時、
何を考えていたかはけっこう覚えています。

「あー、この時なあ、あれをこう、うまく使おうとして狙ったのに」
「お、この時疲れてて結構適当だったのに、よく撮れてるなあ」
など、それぞれ流れに沿って、一喜一憂です。
その新鮮な感動も膨大な枚数をチェックしている内に
だんだんと、その画の露出やブレ、あるいはボケの具合など
減点法に切り替わっていきます。
写真に感動して加点法で選ぶのではなく、つまりあら探しをして
減点法で駄目なコマを振り落としていくようになると、
後で選別したコマを見直した時に
「よくは撮れているんだけど、何か足りないなあ・・・・」
という状態に陥ります。こんな時に見落とすのが、
「条件が良い時に撮れた物ではないし、フレーミングも甘いけど
 これは良いなあ・・」
と素直に感動する写真を見落としてしまいます。
写真を撮っていて、不思議なのは最低限の技術は必要であるが、
それ以上に撮影する人が感動した瞬間に、ふっとまるで何気なくシャッターを
切った時の作品にとても強い力が宿る時があります。
不思議と心を惹きつける力があるのです。
撮る時にそこにあった何かに感動して、
シャッターを切っているのだから、
選別の段階で自分の写真をみているのに伝わらないのでは、
それをこれから見る人に伝わるわけがない。
そんな事を考えながら見ていると、
撮影者にとっては審判を下されることと同じ意味を持ちます。
撮る時も感動が必要ですが、選ぶ時にもみずみずしい感性を
もって望む事が必要なのです。

額装した絵

今回アラスカで購入した絵を額装してもらおうと
美術用品店に出していたのだが、
仕上がったとの連絡をもらったので、受け取ってきた。

この絵はWilliam D. Berryという画家が描いた
Lynxというアラスカに住むヤマネコの絵だ。
この画家を知ったきっかけは以前から僕が、
何度も読み返している
“Animals of the north “(邦題:極北の動物誌)
というタイガの森に暮らす動物たちの暮らしを描いた
動物小説の挿絵で、彼の絵を見かけた事がきっかけだった。
僕はこの本がとても好きで、何度も読み返し
将来、絶版になった時のために、もう一冊
保存用に買おうと思っているくらい好きで、
この本を読んでいる間は、まるで自分が
タイガに暮らす動物になったかのように、彼らの息づかいを
感じる事が出来た。
この絵自体はそれほど高価な物ではなかったのだが、
何よりこのシンプルで素朴なタッチこそが、
膨大な観察時間から生まれてくる芸術であることに
深い感動を覚えた。
友人の写真家にはこの絵を買った事を話し、絵を見せると
彼は「おまえは動物写真家だろう、動物の絵を買ってどうするんだ」
と僕をからかったが、
僕の目標とするところは、
画家であろうが、動物小説家であろうが、写真家であろうが、
一人のナチュラリストでありたいというところだ。
方法の違いこそあれ、自然の中にある事を
感性豊かに感じ取って、表現する。
そして、その作品が自分の生活の中で
輝きを持って存在する。
とは、言ったものの、自分の作品をあらためて
自分の家にかざっていないことに気が付いた。
まいったなあ