鳩とフォトグラファーの境目

今日は家の近くのギャラリーでやっていた
写真展で、写真家のギャラリートークがあったので
ヨメと二人で出かけてきた。
ギャラリートークとは要するに撮った本人による解説付きで
作品を見ながらいろんな話が聞ける。
これは話す作家によって全く内容が異なり、技法的な話や
カメラのセッティングのみに終始する人もいれば、
この画の時はこんな状況でシャッターを切ったと
延々と話し続ける人もいる。
ギャラリートークは写真という分野では伝わりにくい
「人が関わっている」という事が伝わる良い部分だと思っている。
僕はなるべく写真展を見に行く時はスケジュールを
合わせるようにしている。
写真という世界はカメラとレンズという機械を使い、
さらにフィルムという化学の世界によって成り立っている世界である。
最近はデジタルによって、
ますます人が関わる事がわかりにくくなっているように感じる。
展示された作品からは撮影者やその作品に関わった人の気配は
あまり感じられない。
作品の持つ撮影者の感性の世界がストレートに伝わってくる。
作品としてはそれが伝われば最高の物になるだろう。
しかし、このギャラリートークを通して
その作品を作り出すための撮影者と制作者の情熱と努力を
かいま見る事によって、この事が別の角度から光が差すように
作品を照らし、さらに別の色を浮き立たせて見せてくれる。
「この作品は人によって作り出された唯一無二の物なのだ。」
これは、人が関わったというぬくもりのようなものを
さらに感じた時にこそ憶える感触なのかも知れない。
そして、この感触こそが機械や化学を使いながらも
すべての結果の奇跡として存在する写真という芸術が持っている
僕を惹きつけている魅力の一面なのだろう。
そして、ギャラリーでの時間を楽しんだあと、
ヨメとマクドナルドでチープなおやつを楽しんでいた時だった。
店の外に置かれた椅子で、もそもそとハンバーガーを食べていた時
1羽の鳩が足下を餌を探して歩き回っていた。
餌などやる気もなかったが、人慣れしていて不用心にこちらの足下に
近づいてくる。
あまりに無遠慮な距離の取り方だったので、
驚かしてやろうと思い急に手を振り上げたりしてみたが、
一応びっくりしたような様子は見せるものの、それでも
驚いて逃げたりしない。

【超望遠レンズで反芻中のムースにずっと張り付いて撮影する】
無意識の習慣で動物を見ると、ふとその動物が自分と
どのくらい距離をとるのかが気になる。
自分が撮影している距離で動物自体の表情も変わるし、
無遠慮な自分の振る舞いから危険を呼び込む時もある。
どんなに人慣れした動物でもこれ以上は受け入れないという
距離があって、その領域は同じ種類の動物でも、個体によって全く異なる。
その点が動物の個体ごとの個性という物なのかも知れないけれど、
動物の撮影にはその個性を見極められる技術も求められる。
たまに動物の撮影の話をしていて
「自分はこの動物に受け入れられたから撮れた」
と平然という人に出会う事がある。
僕は面と向かって反論はしないけれども、僕の経験上では
受け入れられたと感じたことはなかった。
自分が接近してそこで存在する事を許してくれる事はあるが、
それでも必ず彼らと僕との間には見えないけれども
はっきりとした線が存在した。
無遠慮に寄ってくる一羽の鳩をみてふと思った。
「この鳩はおれと一緒だな」
そして、その不作法さにぼくは苛立ちを憶えた。
その鳩の姿に不分別に被写体に接近していく写真家が重なって見えた。
鳩が足下を歩き回っていても気にならない時もある。
それでも、その対応は人によって様々だ。
その時の気分や状況によって追い散らす事もある。
芸術だ何だと言ってみたところで、所詮は個人の欲でしかない。
彼らの赦しがあってこそ初めて成り立つのだ。
けっしてそのまま自分が受け入れられているのではない、
自分が襟を正し、気持ち整然と整えてから初めて許してもらえるかが
決まるのだ。
多少の経験を積んだかも知れないけれど、まだまだ不作法者。
クルックー、クルックックー

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