今はサーモンの旅のストーリーを作品として、撮り続けている。
いずれこの野生動物の旅を本にまとめるような形で
一つの物語として人に伝える形にしたいと思っている。
それにはもっとたくさんの写真が必要になり、
その作品達を生むためにはさらにたくさんの経験が必要になり、
その経験は膨大なフィールドでの過ごす時間から紡ぎ出される。
いったいどれくらいの時間が、これから必要になるのか見当も付かない。
目指す頂は遙か遠く未だその形すら見えないのが今の現状だ。
それでも今回の撮影で強く体感したのが、
「この道をたどってたどり着く場所はどんなところなのか見当もつかないが、
今この歩いている場所がやがてどこかに辿り着く。ここはつながっている」
そう自分で強く意識した事だ。
人に伝える上で自分の個展という舞台を数年後に開きたい。
そこで、自分の表現をぶつけてみたい。
自分に出来る限りの方法で表現したい。
今回、サーモンを撮影したアラスカの湖からサーモンの骨を持ち帰ってきた。
アラスカの川を遡り、湖を旅してやがて命を燃やし尽くして死んだ彼らの骨を
自分の個展の会場に置きたい。
そこからリアルにふれる何かを伝えられたら・・・・
写真という表現にこだわっているのであれば、
一切そういった物は置くべきではないという意見もあるのかも知れない。
この自分の撮り上げた物語がアラスカの大地で実際に存在する。
一つの物語が自然の中に存在する証として、あえてリアルに触れてもらいたい
今回は天気が悪かったけれども、過酸化水素で処理した後、
アクリルスプレーでコーティング。
個展はまだ先だけど。
月: 2006年11月
ホテル ルワンダ
結局、今回の休みは幾つか用事を済ませた後、夕方からゆっくりと
借りてあったレンタルビデオを見た。
今回借りてきたビデオ。
「ホテル ルワンダ」
公式サイト
1994年にルワンダで実際に起こった100万人の人たちが
わずか100日ほどで虐殺された事件を舞台にした映画。
主人公はある高級ホテルの支配人で、めまぐるしく変わる状況の中、
虐殺を続ける暴力の手から家族や隣人そして、逃げ込んでくる人々を
自分のホテルにかくまい続け、自身の命を危険にさらしながら、
やがて1200人もの人々の命を救う。
以前に見た映画で、
「戦場のフォトグラファー」
公式サイト
というある戦争報道写真家を取り上げたドキュメンタリー映画の中で
今回の「ホテル ルワンダ」の舞台となった94年のルワンダ虐殺を取材した時の
インタビューとその写真家が実際に撮った作品をこの映画の中で見た。
彼の作品(彼の作品にジャンプします上のHUTUという写真です)
が心に焼き付き、この虐殺の事件が心のどこかに残っていた。
今回ビデオ屋の棚の前でふと「ホテル ルワンダ」のビデオのパッケージを見た時にフラッシュバックのように彼の作品を見た時の思いが一瞬で心に甦った。
この「ホテル ルワンダ」の中でどうにもやりきれない気持ちに
なったシーンがあった。
それは、主人公である支配人がホテルの物資を仕入れにある商人の
倉庫に行くシーンだ。
情勢は虐殺が始まる前。
物資を運ぶフォークリフトからある木箱が、偶然滑り落ちて壊れ、
中から大量のナタがこぼれ落ちる。
極右の商人は悪びれもせず、
「このナタは中国から1本10セントで輸入したんだ」
と支配人に言う。
のちにこのナタは100万人もの人々を虐殺することの一部に使われる。
このシーンによって、自分の中で前に書いた写真家の作品とつながり
この虐殺が日常の中から生まれた事件として、ただ人々の虐殺という
インパクトだけでなく、すべてがつながって理解する事が出来た。
この「ホテル ルワンダ」の映画の中で、あるテレビクルーが
「この悲劇を伝えたとしても世界の人々は怖いねと言うだけで
彼らの夕食に戻るだけだ。彼らは助けに来ない」というセリフを言う。
しかし、この映画を撮ったクルーや監督、そしてあの写真家が
伝えたこの虐殺はつながり、そして僕の中で種として残った。
まだ何が出来るか判らないけど、これから出来る事を考えてみようと思う。
ルワンダ虐殺の背景についてはこちらも参考にしてください。
追記:一緒にロブ・マーシャルの「SAYURI」も借りてきたけど、
ひどいアジアなまりの英語のセリフを聞いていると、
舞台が日本と言うより、韓国が舞台の映画に見えてきました。
何故韓国かというと、アンカレッジは特に韓国人が多くて、
日本人が少ないのです。
アメリカではアラスカばっかりの僕にとっては、
アジアなまりのおばちゃんの英語というと
コリアンの人々に頭の中で結びついてしまうからです。
おかげで、全くストーリーに引き込まれることもなく、
「これは何の物語なんだろう?」としらけた二時間でした。
久しぶりの休み・前夜祭
社会復帰して、久しぶりの休み ★★★
あんまりうれしいので、★なんてつけてみました
いやーうれしいなあ。
何しよう・・・
とりあえず、忙しいおかげでちらかったままの部屋の
片づけを・・・・
このワクワク感・・・
明日はなにしようかなあ
とりあえず、今晩は
ゆっくり熱めの風呂に入って、
部屋を片づけておけば
明日朝一で洗濯をして、
ヨメのパソコンのセッティングをして・・・・・
さあ、
頑張るぞ!!(ねむいねむいねむい)
ホッキョクグマ
Youtubeで動画をふらふらとチェックしていたら、
こんなホッキョクグマの動画に出会いました。
まずはコ○コーラのCM
http://www.youtube.com/watch?v=smUUVS7PDR0
そして、この動画
ホントはどっち?
どっちがホッキョクグマ?
コ○・コーラさん。
ポジの選別を始めました
いよいよ、今年のアラスカ撮影の集大成
現像から上がってきたポジの選別を始めました。
帰国してから、現像に出してようやく
規則的に時間がとれそうなので、ポジの選別に入ります。
玉石混合
さあ、玉が幾つ入っているかは判りませんが、
この作業が一番根気で地道な集中力が必要な作業です。
なぜなら、あくまでも中立の目線でポジを選んでいくという
作業は思ったよりも難しいのです。(僕には・・・)
不思議と何本撮っても、その撮った状況やその時、
何を考えていたかはけっこう覚えています。
「あー、この時なあ、あれをこう、うまく使おうとして狙ったのに」
「お、この時疲れてて結構適当だったのに、よく撮れてるなあ」
など、それぞれ流れに沿って、一喜一憂です。
その新鮮な感動も膨大な枚数をチェックしている内に
だんだんと、その画の露出やブレ、あるいはボケの具合など
減点法に切り替わっていきます。
写真に感動して加点法で選ぶのではなく、つまりあら探しをして
減点法で駄目なコマを振り落としていくようになると、
後で選別したコマを見直した時に
「よくは撮れているんだけど、何か足りないなあ・・・・」
という状態に陥ります。こんな時に見落とすのが、
「条件が良い時に撮れた物ではないし、フレーミングも甘いけど
これは良いなあ・・」
と素直に感動する写真を見落としてしまいます。
写真を撮っていて、不思議なのは最低限の技術は必要であるが、
それ以上に撮影する人が感動した瞬間に、ふっとまるで何気なくシャッターを
切った時の作品にとても強い力が宿る時があります。
不思議と心を惹きつける力があるのです。
撮る時にそこにあった何かに感動して、
シャッターを切っているのだから、
選別の段階で自分の写真をみているのに伝わらないのでは、
それをこれから見る人に伝わるわけがない。
そんな事を考えながら見ていると、
撮影者にとっては審判を下されることと同じ意味を持ちます。
撮る時も感動が必要ですが、選ぶ時にもみずみずしい感性を
もって望む事が必要なのです。
柿、熟れました
日本に帰ってきて、一番の楽しみといえば、
何より新鮮なものが食べられること。
これは野菜や肉や魚に限らず何を食べても、
日本の食べ物はおいしい。
帰国直後はコンビニに入っただけで、
その品揃えの豊かさに感動する。
今日はヨメが庭にある柿の木から
新鮮な柿を取って、食卓にデザートで出してくれた。
うまい!!
うまい!うまい!!
どう逆立ちしてもアラスカではこれは食べられません。
特に柿が好きって訳ではないけれど、こんなにおいしい柿が
自分の家の庭から採れるということを考えるだけで、
とても豊かな気持ちになる。
「家の庭からとてもおいしい柿が採れるんですよ」
誰に言う訳ではないが、誰かに言ってみたい。
「あっそう」と言われそうだけれども。
自然の中から自分の食べるものを自分で取る。
もちろん、すべての自分の食べ物をまかなう事に
なった場合は、それが豊かだなどという余裕すらないほど
必死に生きていかなければならなくなるだろう。
飽食と言われる時代。
しかし、庭にある柿一つで思い出させてくれる事がある。
そのために自分の手で、自然の中から自分の食べるものを自分で取る。
あ、そうそう、もうひとつ言いたい事があるんですよ
「今年はゆずも豊作なんです」
たまりませんね・・・・
額装した絵
今回アラスカで購入した絵を額装してもらおうと
美術用品店に出していたのだが、
仕上がったとの連絡をもらったので、受け取ってきた。
この絵はWilliam D. Berryという画家が描いた
Lynxというアラスカに住むヤマネコの絵だ。
この画家を知ったきっかけは以前から僕が、
何度も読み返している
“Animals of the north “(邦題:極北の動物誌)
というタイガの森に暮らす動物たちの暮らしを描いた
動物小説の挿絵で、彼の絵を見かけた事がきっかけだった。
僕はこの本がとても好きで、何度も読み返し
将来、絶版になった時のために、もう一冊
保存用に買おうと思っているくらい好きで、
この本を読んでいる間は、まるで自分が
タイガに暮らす動物になったかのように、彼らの息づかいを
感じる事が出来た。
この絵自体はそれほど高価な物ではなかったのだが、
何よりこのシンプルで素朴なタッチこそが、
膨大な観察時間から生まれてくる芸術であることに
深い感動を覚えた。
友人の写真家にはこの絵を買った事を話し、絵を見せると
彼は「おまえは動物写真家だろう、動物の絵を買ってどうするんだ」
と僕をからかったが、
僕の目標とするところは、
画家であろうが、動物小説家であろうが、写真家であろうが、
一人のナチュラリストでありたいというところだ。
方法の違いこそあれ、自然の中にある事を
感性豊かに感じ取って、表現する。
そして、その作品が自分の生活の中で
輝きを持って存在する。
とは、言ったものの、自分の作品をあらためて
自分の家にかざっていないことに気が付いた。
まいったなあ
死の連鎖
このところ、毎日自殺のニュースがつづいている
毎日誰かが、死んでいく。
そして、その事が当たり前のように耳に飛び込んでくる
死の連鎖
毎日、新しい鎖がつながっていく
年間3万人。(こちらのデータ参照)
3万個のつながった鎖がどれだけの長さになるのだろうか?
いったい何がきっかけで死を選ぶのか本当のところは
本人しか判らないだろう。
しかし、3万人という数字を僕の頭で想像する事が出来ない。
この数字はスタジアム一つ分の人間が
丸ごと自ら命を絶っているのだ。
しかも、毎年。
これだけ物質的には恵まれていると言われている日本で、
これだけの数の人間が自分の未来に失望している。
ここまで書いたが、いったい何がこれに対しての答えになるのだろう?
「希望の火を掲げる事」
それが自分の出来る事かも知れない
まだ漠然としていて、何が出来るかも判らない
しかし、逆風にも負けず掲げ続ける事で
あるいは彼らの中の一人の顔を照らす事が出来るかも知れない