おもいでぽろぽろ

このところ、ばたばたと忙しくというよりは、
充実していて(と、書いた方が良さそうだ・・)
毎日仕事から帰ってきてはせっせと今までの写真達を
整理している。

今までも自分の気に入った作品は整理した来たけれども、
全体をきちんと分けて、整理された状態に維持して
尚かつどんな写真があるのかすぐに判る状態にしておきたいと
思っていた。
それに「まだか!いい加減にしろ」と言われそうだけれでも、
今年のアラスカの出発の前までに自分のWebページを
オープンしたいと思っている。
それには自分の写真達をデジタル化しておくことが必要だし、
ノートpcで持ち運ぶ事で、アラスカでもイメージを
具体的に見せる事が出来るようになる。
それに最近のコンピュータの進歩やデジタル画像の管理に関する
考え方の進歩もあって、「ああ、こういうふうにやりたいなあ」
と思っていた事が、ソフトやハード両方の面で
環境や自分の勉強の進歩で出来そうになってきた。
もちろん、やりながら勉強する事も沢山あるのだけれど、
少しずつでも前に進んでいる実感がある。
いろんな事はすぐに忘れてるとヨメに怒られるぼくだけれど、
不思議と写真を撮った時の状況や何を考えていて撮ったかなど、
とてもよく憶えている。
どんなベストショットでも、
ボツカットでも不思議とそれは変わらない。
そんな訳で、昔の写真を整理すると言う事は
必然的に過去の自分に対面する事であり、
あれやこれやと思い出すのである。
ある意味セキララな作業でもある。

真摯な自分の視点であったり、自分に酔って
大量に撮られたセルフタイマーの写真であったり、
ちょっとした自分同窓会だ。
しかも、毎晩開催。
おかげで、ちょっと風邪をひいてしまった。
今はまだ昔選別してふるいにかけた物に
拾い残しがないか調べている段階。
それがね、結構あるんですよ。
沢山写真をみてきて、勉強になった事も
やっぱりあったんだなとしみじみ実感。
そして、真のボツはビニール袋に入れて
お蔵入り。
きっと日の目を見る事はありません

え?
だって捨てられないんですもの・・・・

今年の挑戦

今年はいよいよ水中に手を出そうと決心して、
ハウジングを友人に頼んで探してもらっていました。
このハウジングに丸ごと1眼レフをいれて
今年の夏は水中で勝負してきます。
しかし、アラスカに通い始めた頃はまさか、水中に
手を出すとは思ってもいなかった。

でも、やっとカメラは買った物のとてもドライスーツまで
お金が回らない・・・・・
テストもこの水温じゃ出来ないし、
風呂に潜るわけにもいかないし。
うーーん、困った。
まあ、日本にいる間に練習しないとね。
まだ1回も撮った事ないし。

大家族

今日、ヨメと弟と3人で商店街に
晩飯の食材を買いに出かけた時に
見つけた。

すげーネーミングセンス!
「うちはねえ!!5キロなんてあっという間だわ!」
なーんてセリフが通用しません。
「大家族?何人?まーかせなさい!」
この安定感。頼りになりそう

ワークショップ

今日は仕事を終えてから
恵比寿の写真美術館でモノクロのプリントのワークショップに
参加してきました。
完全な初心者を対象にしたワークショップで
参加者もいろんな人(おじさんから若い女の子までいろいろ)
がいて自分で撮影したネガから1コマ選んで紙に焼きました。
実は・・・・
今日初めてモノクロのプリントをやりました!!
さんざんこだわっているような事を書いておきながら・・・
じ・つ・は・・・・
今まで、カラーネガを機械で焼くレーザープリントや
ポジでのリバーサルプリントはだいぶ、経験を積んできたので
判るようになっていたのですが、
機械を使わず、自分で引き延ばし機を使って
現像液を用意して行う「手焼き」は今日初めてでした。
うーーん
面白い!!暗室の作業は手応えがある!!
何より人に伝えず自分で好きなように作品作りができるという
このプロセスが面白い。
ぼくは普段、ポジと呼ばれるカラースライドを使って
撮影している。
これは、現像が終わった段階で作品としては完成する。
ネガなどと違う事は、ネガの場合反転させてプリントするため、
実際のネガからプリントにする時の解釈の違いによって
まったく異なった作品になるのだけれど、
ポジの場合は現像が仕上がった段階で、オリジナルとしては完成する。
もちろん、プリントにする場合はネガと同じように解釈によって
変わってくるが、ぼくの感覚としてポジの場合は現像が上がった段階で
はっきりと作品の完成があるような感じている。
しかし、これがネガ・ポジともにカラーのプリントを作るということは、
薬品の温度管理がとても難しい。
なので、ほとんどの場合は機械の制御下で温度を管理して、
カラープリントを作り出している。
ぼくは今まで、自分の作品をプリントで作る場合は
ほとんどの場合、第三者に自分の作品の意図を伝えて
作ってもらう事が多かった。
言葉にしても伝わらない感覚が、どうしてもある。
今日モノクロのプリントを自分で作ってみて、
何より自分が作品作りに関われる工程がさらに広がっていくのが
とてもみずみずしい感覚だった。
今日自分で作ったプリントは、作る過程でひらめいたイメージで方法を変え、
最初に自分が作品にイメージしていたものとは全く違う物になった。
この事が今日の一番の自分の成果だった。
暗室の自分の手の中で像を結んでいく印画紙に感動を覚えた。
写真はおもしろい!!
まだまだ勉強する事がいっぱいあるなあ。
また、一つ写真の面白い面を知ってしまった。
今年のアラスカにも持っていこうかな?モノクロフィルム。
でも、撮る事は全く別物なんだよね。カラーとモノクロは。
少しでもモノにしていろいろやってみたいな。
ただし、一番の問題はわたくしがそんなに器用に立ち回れない事なんだよね。
うーん。こまった。

鳩とフォトグラファーの境目

今日は家の近くのギャラリーでやっていた
写真展で、写真家のギャラリートークがあったので
ヨメと二人で出かけてきた。
ギャラリートークとは要するに撮った本人による解説付きで
作品を見ながらいろんな話が聞ける。
これは話す作家によって全く内容が異なり、技法的な話や
カメラのセッティングのみに終始する人もいれば、
この画の時はこんな状況でシャッターを切ったと
延々と話し続ける人もいる。
ギャラリートークは写真という分野では伝わりにくい
「人が関わっている」という事が伝わる良い部分だと思っている。
僕はなるべく写真展を見に行く時はスケジュールを
合わせるようにしている。
写真という世界はカメラとレンズという機械を使い、
さらにフィルムという化学の世界によって成り立っている世界である。
最近はデジタルによって、
ますます人が関わる事がわかりにくくなっているように感じる。
展示された作品からは撮影者やその作品に関わった人の気配は
あまり感じられない。
作品の持つ撮影者の感性の世界がストレートに伝わってくる。
作品としてはそれが伝われば最高の物になるだろう。
しかし、このギャラリートークを通して
その作品を作り出すための撮影者と制作者の情熱と努力を
かいま見る事によって、この事が別の角度から光が差すように
作品を照らし、さらに別の色を浮き立たせて見せてくれる。
「この作品は人によって作り出された唯一無二の物なのだ。」
これは、人が関わったというぬくもりのようなものを
さらに感じた時にこそ憶える感触なのかも知れない。
そして、この感触こそが機械や化学を使いながらも
すべての結果の奇跡として存在する写真という芸術が持っている
僕を惹きつけている魅力の一面なのだろう。
そして、ギャラリーでの時間を楽しんだあと、
ヨメとマクドナルドでチープなおやつを楽しんでいた時だった。
店の外に置かれた椅子で、もそもそとハンバーガーを食べていた時
1羽の鳩が足下を餌を探して歩き回っていた。
餌などやる気もなかったが、人慣れしていて不用心にこちらの足下に
近づいてくる。
あまりに無遠慮な距離の取り方だったので、
驚かしてやろうと思い急に手を振り上げたりしてみたが、
一応びっくりしたような様子は見せるものの、それでも
驚いて逃げたりしない。

【超望遠レンズで反芻中のムースにずっと張り付いて撮影する】
無意識の習慣で動物を見ると、ふとその動物が自分と
どのくらい距離をとるのかが気になる。
自分が撮影している距離で動物自体の表情も変わるし、
無遠慮な自分の振る舞いから危険を呼び込む時もある。
どんなに人慣れした動物でもこれ以上は受け入れないという
距離があって、その領域は同じ種類の動物でも、個体によって全く異なる。
その点が動物の個体ごとの個性という物なのかも知れないけれど、
動物の撮影にはその個性を見極められる技術も求められる。
たまに動物の撮影の話をしていて
「自分はこの動物に受け入れられたから撮れた」
と平然という人に出会う事がある。
僕は面と向かって反論はしないけれども、僕の経験上では
受け入れられたと感じたことはなかった。
自分が接近してそこで存在する事を許してくれる事はあるが、
それでも必ず彼らと僕との間には見えないけれども
はっきりとした線が存在した。
無遠慮に寄ってくる一羽の鳩をみてふと思った。
「この鳩はおれと一緒だな」
そして、その不作法さにぼくは苛立ちを憶えた。
その鳩の姿に不分別に被写体に接近していく写真家が重なって見えた。
鳩が足下を歩き回っていても気にならない時もある。
それでも、その対応は人によって様々だ。
その時の気分や状況によって追い散らす事もある。
芸術だ何だと言ってみたところで、所詮は個人の欲でしかない。
彼らの赦しがあってこそ初めて成り立つのだ。
けっしてそのまま自分が受け入れられているのではない、
自分が襟を正し、気持ち整然と整えてから初めて許してもらえるかが
決まるのだ。
多少の経験を積んだかも知れないけれど、まだまだ不作法者。
クルックー、クルックックー