今年の挑戦

今年はいよいよ水中に手を出そうと決心して、
ハウジングを友人に頼んで探してもらっていました。
このハウジングに丸ごと1眼レフをいれて
今年の夏は水中で勝負してきます。
しかし、アラスカに通い始めた頃はまさか、水中に
手を出すとは思ってもいなかった。

でも、やっとカメラは買った物のとてもドライスーツまで
お金が回らない・・・・・
テストもこの水温じゃ出来ないし、
風呂に潜るわけにもいかないし。
うーーん、困った。
まあ、日本にいる間に練習しないとね。
まだ1回も撮った事ないし。

大家族

今日、ヨメと弟と3人で商店街に
晩飯の食材を買いに出かけた時に
見つけた。

すげーネーミングセンス!
「うちはねえ!!5キロなんてあっという間だわ!」
なーんてセリフが通用しません。
「大家族?何人?まーかせなさい!」
この安定感。頼りになりそう

ワークショップ

今日は仕事を終えてから
恵比寿の写真美術館でモノクロのプリントのワークショップに
参加してきました。
完全な初心者を対象にしたワークショップで
参加者もいろんな人(おじさんから若い女の子までいろいろ)
がいて自分で撮影したネガから1コマ選んで紙に焼きました。
実は・・・・
今日初めてモノクロのプリントをやりました!!
さんざんこだわっているような事を書いておきながら・・・
じ・つ・は・・・・
今まで、カラーネガを機械で焼くレーザープリントや
ポジでのリバーサルプリントはだいぶ、経験を積んできたので
判るようになっていたのですが、
機械を使わず、自分で引き延ばし機を使って
現像液を用意して行う「手焼き」は今日初めてでした。
うーーん
面白い!!暗室の作業は手応えがある!!
何より人に伝えず自分で好きなように作品作りができるという
このプロセスが面白い。
ぼくは普段、ポジと呼ばれるカラースライドを使って
撮影している。
これは、現像が終わった段階で作品としては完成する。
ネガなどと違う事は、ネガの場合反転させてプリントするため、
実際のネガからプリントにする時の解釈の違いによって
まったく異なった作品になるのだけれど、
ポジの場合は現像が仕上がった段階で、オリジナルとしては完成する。
もちろん、プリントにする場合はネガと同じように解釈によって
変わってくるが、ぼくの感覚としてポジの場合は現像が上がった段階で
はっきりと作品の完成があるような感じている。
しかし、これがネガ・ポジともにカラーのプリントを作るということは、
薬品の温度管理がとても難しい。
なので、ほとんどの場合は機械の制御下で温度を管理して、
カラープリントを作り出している。
ぼくは今まで、自分の作品をプリントで作る場合は
ほとんどの場合、第三者に自分の作品の意図を伝えて
作ってもらう事が多かった。
言葉にしても伝わらない感覚が、どうしてもある。
今日モノクロのプリントを自分で作ってみて、
何より自分が作品作りに関われる工程がさらに広がっていくのが
とてもみずみずしい感覚だった。
今日自分で作ったプリントは、作る過程でひらめいたイメージで方法を変え、
最初に自分が作品にイメージしていたものとは全く違う物になった。
この事が今日の一番の自分の成果だった。
暗室の自分の手の中で像を結んでいく印画紙に感動を覚えた。
写真はおもしろい!!
まだまだ勉強する事がいっぱいあるなあ。
また、一つ写真の面白い面を知ってしまった。
今年のアラスカにも持っていこうかな?モノクロフィルム。
でも、撮る事は全く別物なんだよね。カラーとモノクロは。
少しでもモノにしていろいろやってみたいな。
ただし、一番の問題はわたくしがそんなに器用に立ち回れない事なんだよね。
うーん。こまった。

鳩とフォトグラファーの境目

今日は家の近くのギャラリーでやっていた
写真展で、写真家のギャラリートークがあったので
ヨメと二人で出かけてきた。
ギャラリートークとは要するに撮った本人による解説付きで
作品を見ながらいろんな話が聞ける。
これは話す作家によって全く内容が異なり、技法的な話や
カメラのセッティングのみに終始する人もいれば、
この画の時はこんな状況でシャッターを切ったと
延々と話し続ける人もいる。
ギャラリートークは写真という分野では伝わりにくい
「人が関わっている」という事が伝わる良い部分だと思っている。
僕はなるべく写真展を見に行く時はスケジュールを
合わせるようにしている。
写真という世界はカメラとレンズという機械を使い、
さらにフィルムという化学の世界によって成り立っている世界である。
最近はデジタルによって、
ますます人が関わる事がわかりにくくなっているように感じる。
展示された作品からは撮影者やその作品に関わった人の気配は
あまり感じられない。
作品の持つ撮影者の感性の世界がストレートに伝わってくる。
作品としてはそれが伝われば最高の物になるだろう。
しかし、このギャラリートークを通して
その作品を作り出すための撮影者と制作者の情熱と努力を
かいま見る事によって、この事が別の角度から光が差すように
作品を照らし、さらに別の色を浮き立たせて見せてくれる。
「この作品は人によって作り出された唯一無二の物なのだ。」
これは、人が関わったというぬくもりのようなものを
さらに感じた時にこそ憶える感触なのかも知れない。
そして、この感触こそが機械や化学を使いながらも
すべての結果の奇跡として存在する写真という芸術が持っている
僕を惹きつけている魅力の一面なのだろう。
そして、ギャラリーでの時間を楽しんだあと、
ヨメとマクドナルドでチープなおやつを楽しんでいた時だった。
店の外に置かれた椅子で、もそもそとハンバーガーを食べていた時
1羽の鳩が足下を餌を探して歩き回っていた。
餌などやる気もなかったが、人慣れしていて不用心にこちらの足下に
近づいてくる。
あまりに無遠慮な距離の取り方だったので、
驚かしてやろうと思い急に手を振り上げたりしてみたが、
一応びっくりしたような様子は見せるものの、それでも
驚いて逃げたりしない。

【超望遠レンズで反芻中のムースにずっと張り付いて撮影する】
無意識の習慣で動物を見ると、ふとその動物が自分と
どのくらい距離をとるのかが気になる。
自分が撮影している距離で動物自体の表情も変わるし、
無遠慮な自分の振る舞いから危険を呼び込む時もある。
どんなに人慣れした動物でもこれ以上は受け入れないという
距離があって、その領域は同じ種類の動物でも、個体によって全く異なる。
その点が動物の個体ごとの個性という物なのかも知れないけれど、
動物の撮影にはその個性を見極められる技術も求められる。
たまに動物の撮影の話をしていて
「自分はこの動物に受け入れられたから撮れた」
と平然という人に出会う事がある。
僕は面と向かって反論はしないけれども、僕の経験上では
受け入れられたと感じたことはなかった。
自分が接近してそこで存在する事を許してくれる事はあるが、
それでも必ず彼らと僕との間には見えないけれども
はっきりとした線が存在した。
無遠慮に寄ってくる一羽の鳩をみてふと思った。
「この鳩はおれと一緒だな」
そして、その不作法さにぼくは苛立ちを憶えた。
その鳩の姿に不分別に被写体に接近していく写真家が重なって見えた。
鳩が足下を歩き回っていても気にならない時もある。
それでも、その対応は人によって様々だ。
その時の気分や状況によって追い散らす事もある。
芸術だ何だと言ってみたところで、所詮は個人の欲でしかない。
彼らの赦しがあってこそ初めて成り立つのだ。
けっしてそのまま自分が受け入れられているのではない、
自分が襟を正し、気持ち整然と整えてから初めて許してもらえるかが
決まるのだ。
多少の経験を積んだかも知れないけれど、まだまだ不作法者。
クルックー、クルックックー

くまのゆめ

先日久しぶりにクマの夢を見ました。
知床でガイドをしていた時は、頻繁に見ていたけど
久しぶりに見ました。
でも久しぶりに見た夢は、
以前と趣向が変わったみたいで、ガイドの時は
クマがこちらに向かってきても
自分以外の人に向かっていって、自分は全く相手にされないで
何も出来ないでとても悔しい思いをするというのが、
いつものパターンだったけど、
今回の夢は川の中で割と大きめの若いクマと取っ組み合って
力比べをしている夢でした。
最初は川の土手で川の中にいるクマをのんびりと撮影しながら
観察していた。
そのクマは自分の事に集中していて、
全くこちらを気にしない様子で、川の中で何かを探していた。
こちらもクマが人がそばにいる事にストレスに感じていない事が
伝わっていて、その事に自分の中で手応えとゆったりとクマを観察できる
充実感でいっぱいになっていた。
しかし、ここから話が唐突に急展開する。
はっと気が付くとさっきまで観察していたクマと
まるでプロレスラーががっちり組み合うように川の中で
組み合っている。
その状況は恐ろしい恐怖心などは全く感じられないのだけれども、
とにかくこいつをここで負かせてしまおうと、強く思っていて
何とか全身に力を込めてみるのだけれど、150センチほどのクマは
こちらが力を込めるとその分、力を込めて押し返してくる。
こいつ小さいのに力が強いな!!と思ってさらに力を振り絞ると
その分またクマも力を込めてくる。
負ける様子はないのだけれど、がっちり重く組んでいて
とてもほどける様子はなかった。
どのくらい続いたのか判らないけれど、がっちり組んだ重さに疲れて
目が覚めた。
それからやっと夢だったと気が付いた。
この夢のおかげで全身に力が入っていて、疲れ切っていた。
手や足を一つ一つほどかないと力がゆるまなかった。
妙にがっちり組んだ重さがリアルだったと思ったら、
布団が変に絡まってまとわりついていて、身動きがとれなかっただけだった。
しかし、いつもクマが夢に出てくるとどんな夢でもとても疲れる。

風情っていいね

日本語という言葉に今日はしびれてしまった。
なんと素晴らしいセンスを持った言語だろう
僕らはこのセンスを普段生かし切っているのだろうか?

何ってあなた!
わかりません?このセンス。
騙しあいですよ。
これは、なんとすてきな名前でしょう。
一つのどんぶりの中でだましあってる物語のある食べ物なんですよ。
ただの揚げと天かすのうどんなんて、味気ない名前ではなく
「きつねとたぬきのだましあい」という素晴らしいセンス。
前に美輪明宏がテレビで
「狐と狸のばかしあいなんですよ、男と女って。ほとんど狐が勝って、狸がかなうわけないんです。」って言い切ってたセリフも思い出した。
この場合、狸はもちろん男ですが。
でも、思い出しただけで、この言葉に特に深い意味はありません。
ま、このだましあいうどんに勝敗は必要ないし、ずっとだましあってて
欲しいものです。
でも、実はただ名前に感動しただけで、食べなかったことは内緒。
そのうち「だましあい、ひとつ!うどんで!」って注文してみよう。

格差、格差というけれど、

最近、格差という言葉をよく聞く。
そんな言葉あったなあ、と思っていたら
いつの間にかみんな使うようになり、あっという間に浸透して
国会の焦点になるほど使われているようだ。
何かに追われるように皆この言葉におびえているけれど、
いったい何に差が付くのだろう?
ふと仕事先で見上げた満月にそんな事を思った。
なぜなら、
アラスカで満月の月光にじっと照らされたデナリの撮影中に
見上げた月の美しさと何も変わらなかったからだ。
そして、同じ月の美しさに感動している自分がいた。
必死に何かを探して生きているたくさんの人々の上を
あのときと同じ月が浮かんでいた。
この月の下で今日もたくさんの人が暮らしている。
この世界でちょっとした差が付いたところで
一体なんだというのだろう。

襖よ サラバ

先週と今週の休みを使って
襖を張り替えた。
ちなみにこの字は襖<ふすま>です。
「ねえねえ醤油ってかける〜?」ってCMが昔あったような
気がしますが、この字も書けない字に入ると思う。
今は襖自体が家にない家もあるから尚更かも知れないけど。

ちなみにこの写真が我が家の居間です。
廃屋ではありません
昨年末に張り替えようと、換え紙は買ってあったものの、
とても時間がなくここまで引っ張ってきました。

庭に搬出!
何時替えたのか判らない古い襖紙なので、きれいに剥がれず
強引に剥がす事にしました。

“素人の仕事は何事もやりながらコツを覚え、そして終わる頃にやっと慣れる”
この基本原則にならって、あくまでムキにならず、
一つ一つやり方を工夫しながら発見が楽しい。
ここでも、水を染みこませたスポンジでサッと一拭きして
水を襖紙に吸わせるとかなり剥がれやすくなる事が判明!
しかし、この発見ももちろん作業後半になってから。
「あっ、北海道」
「は?」
「ほらこれ・・・・」
ヨメの指さす先を見ると・・・

そうです。
あくまでも仕事ではないので、ストイックになってはいけません。

襖紙を剥がし、傷んでいる部分を木工ボンドで補修。
「下地だけにしてみると、これもなかなか趣合っていいんじゃないの?」
いよいよ、新しい襖紙を貼り付けます。
ホームセンターで買ってきた、裏に糊の着いていて
水で濡らして貼り付けるタイプをスポンジでサッと一拭き。

カッターで目地に合わせながらはみ出た部分を切っていきます。
説明書きによると、あらかじめ切っておいてから貼り付けるのが
正しいやり方との事。
しかし、我ら二人の現場責任者の判断により、
”この日が暮れ始めた時間にそんな悠長な事はしてられない!!”
と現場の意見で勝手に変更。
全部で表と裏を合わせると8枚も張り替えなければならない訳で、
当然、時間が経つに従って、写真を撮っている余裕など無くなり、
延長戦は室内へ。

しかし、残りあと1枚というところで、時間切れ。
結局、2週に持ち越したが、無事完成。
多少波打っているところはあるけれど、素人仕事にしては
なかなかというところでしょうかな?
まあ、もちろん次にやる時にはすっかり忘れているのでしょうが。
はっはっは。

地球の旅人

今日は写真展に2つ出かけてきた。
「地球の旅人 新たなネイチャーフォトの挑戦」 
@東京都写真美術館
新進の3人のネイチャーフォトグラファーを特集した作品展。
こういった美術館でいわゆる “ビッグネーム” ではない作家の企画展が
行われるのはあまり聞いた事がない。
新たなネイチャーフォトの挑戦とあったので、
とても楽しみにして行ったのだが、満足の内容だった。
この所、幾つかでかけた写真展では期待を裏切られる事が多かったのだが、
写真の内容、プリントの質、会場作りのすべてに置いても抜け目がなく
幾つか自分で写真展をやる時に使えそうなアイデアもあった。
ネイチャーフォトの世界では独学から入った人が多く、
(ぼくもそうです)作品展に出かけていくと、
写真のパネルが発泡スチロールのパネルに張られていて、
湾曲していたり、プリントの質が悪かったり、
キャプションが手作りで傷んでいたりと
写真の内容に入る前の段階でがっかりする事が多かった。
海外ではネイチャーフォトについての評価は一般的なアートと
比べても立派に評価されているのだが、日本では評価が低い。
知人の大学の写真学科では同じクラスにはネイチャーフォトを
志望する人はいないとの事。
自分が写真で表現する作家として
アートやコマーシャルの彼らと同じ土俵に立てなければ、
認めてもらう事はできない。
このことは今の自分でもっとも身につけていきたい事の一つ。
今回の3人の作家の中で、特に印象に残ったのは、
林明輝
山麓ネイチャーフォトグラファー
この人の作品が美しかった。
プリントの質も素晴らしく、写真の美しさが薄暗い会場の中で輝いていた。
印刷物では伝わらないオリジナルに最も近い作品の中に漂う空気という
ものがあった。
● 小寺卓矢写真展 森の息、生命の像 –北海道東部の森–
@新宿ペンタックスフォーラム
こちらは以前、書店で森のいのちという写真絵本を見てから、
ずっと気にしてきた作家。
北海道の森林を中心に撮り続けている写真家。
森という撮り尽くされた感のあるテーマだが、
独特の感性から生み出される作品は、
今まで語られていない部分が秘められているよう。
これからどんな物語が紡がれていくのか、とても楽しみな楽しみだ。
今日はこの2つの作品展から表現者のエネルギーを全身に浴び、
やる気がみなぎっている微妙な興奮状態でこのエントリを上げました。
よって、かなり読みにくい文章でしょうが、ご勘弁ください。
あー、今日は楽しかったぜ!!

まるで、遠き昔のように

今日は妙な日だった。
普段、あまり昔を振り返ったりする事はないのだけれど
ふと昔の事を思い出し、自分のいるこの今という時間を
感じる事があった。
仕事が一段落して、小腹がすいたので
ちょっとマクドナルドに立ち寄って
夕食のような、つまみ食いのような食事をとった。
同僚と店内で席につき、おたがい窓の外を見ながら
もそもそとハンバーガーを食べた。
向かい合っている席にもかかわらず、言葉を交わすわけでもなく
もくもくと外を眺めながら食べた。
しかし、それは重苦しい雰囲気ではなく
お互いにとって交わす言葉を必要としない、静かな食事だった。
きっと二人とも外の世界をみながら全く別々の事を
頭の中に巡らせていた。
いつもなら気にもならないのだが、ぼんやりとしていたせいか、
楽しそうに話す別の席に座ったカップルの会話の声が耳に入った。
何を話しているのかまでは判らなかったが、
会話のテンポの様子から彼が会話の中にしきりに
冗談を言って、それに彼女が楽しそうに笑っているようだった。
その様子は二人とも本当に楽しそうだった。
特に彼女の楽しそうに笑う様子が印象に残った。
ただ、その時ふと自分の事を思い出した。
「そういえば、あんなことが自分にもあったな。」
お金もなかったし(それは今もだけど・・・)、本当に若かった。
ああやって、マクドナルドに寄って本当に楽しそうに
女の子を笑わせたことがあったなあと思った。
いままで、そんな事を思い出したこともなかったけど、
何故かふと思いだした。
するとある事がすぐに浮かんだ。
「きっと今の自分にはあの時の自分と同じ事はできないな」
あれから、いろんな事が経験を積んでうまく出来るようになったかも
知れないけど、こんな風に本当に楽しそうにマクドナルドにいて、
女の子を笑わすことはもう今はできないなと。
不思議と悲しくはなかった。感傷にひたる訳でもなく
ただ今の自分の立っている場所がはっきりと見えただけだった。
まさかマクドナルドでつまみ食いをするために立ち寄って、
こんな事に気が付くとは思わなかったけれど。
おまけでもう一つ
何とも不思議な事があった。
結構長い距離をバスで
ずっと運転手と僕だけの二人きりの貸し切りバスだった。

人気のない場所だったら珍しくもないけど、交通量の多い道路を通る
路線だったので、外はにぎやかなのにバスの中はエンジン音と
運転手の安全確認の点呼とアナウンスだけだった。
二人きりのバスでずっと誰も降りず、誰も乗らない。
運転手の仕事がどんな物なのかじっくり観察できた。
しかし、なんとも奇妙な感じでいっぱいだった。